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zoom RSS 『誰もが小さなロベスピエールになる〜民主主義国家の原罪〜』

<<   作成日時 : 2015/01/15 17:44   >>

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前回の論考につき、アレクセイ様(http://8010.teacup.com/aleksey/bbs)からお返事を頂きました。もちろん私の方もすぐに再応答をしたかったのですが、その前に少々「準備」が必要になると感じ、その旨をあちらの掲示板にも書き込んで参りました。と申しますのも、アレクセイ様と私の間には国家観・権力観・民主主義観を巡ってのかなり厄介な差異が横たわっており、それを鮮明にさせないと議論が先に進まないと考えるからです。この点につき既にアレクセイ様のお立場についてご説明を頂いておりますので、私の方で自身の国家観や権力観を明らかにし、そのうえで意見交換を再開したいと思います。
この論考は、直接的には私の国家観・権力観・民主主義観の表明です。そして間接的・部分的には、アレクセイ様のご返答に対する私からの再応答にもなっています。ですから、アレクセイ様の掲示板でのご発言も参照したうえでお読みくだされば、2人の考え方の差異が浮き彫りになるかと存じます。



『誰もが小さなロベスピエールになる〜民主主義国家の原罪〜』

 自衛隊を「暴力装置」と呼びそのためにバッシングを受けた政治家がかつてこの国にいた。しかし紛れもなく自衛隊は暴力装置である。それどころか、ほぼ全ての公的機関が暴力装置であり、そもそも国家は暴力装置である。国家およびその派生機関は(法学的な意味での)権力を行使することが認められている(以下、「権力」と特に断りなく使った場合は法学的意味での権力を指す)。権力とは、相手を無理やりに力づくで従わせる力のことであり、すなわち相手が言うことを聞かないときには最後は暴力に訴えることができることをその本質としており、つまり権力とは暴力なのである。したがって権力を行使することが認められている国家およびほぼ全ての公的機関はまさしく暴力装置なのである。
「暴力」という用語がお気に召さなければ、「物理的強制力」という言葉に置き換えても構わない。意味するところは同じだが、「暴力」という言葉につきまとう野蛮で乱暴な印象が「物理的強制力」という言葉には無い。件の政治家も後者を使えばそれほどバッシングを受けなくて済んだことだろう。社会学的には完全に正しい用語使用法だったにもかかわらず批判に晒された彼には少々同情するところはある。


 とは言え、やはり少々不用意な発言であったこともまた否めない。社会学うんぬんはともかくとして、日常的言語感覚からすると「暴力」と「物理的強制力」は違うのである。既に上で述べたように、「暴力」という言葉には野蛮で乱暴な印象がつきまとう。言ってしまえば「暴力」と聞いて真っ先に人が連想するのは「暴○団」であろう。要するに適正・適法なものではない匂いを感じてしまうのである。「物理的強制力」にはそれが無い。これは無色透明・価値中立的な言葉である。警察官が犯罪者を逮捕するときに相手を組み敷いたりときに拳銃を使うこともここには含まれているし、執行官が執行妨害者を力づくで追い出すことも含まれている。強いて近い言葉に置き換えるなら「実力」という言葉が適切だろう。「実力行使」の実力である。そこに「色」はついていない。
 繰り返しになるが、自衛隊に限ったことではなくおよそ国家権力・公権力を「暴力」と称することをこの国の国民もマスコミも嫌う。それは暴力という言葉にまとわりつく野蛮なイメージを国家権力には感じていないためだ。それが高じて社会学的には当然の用語使用方法にさえバッシングが起こってしまったのだが、とはいえ、この感覚そのものは正しい。国家権力・公権力とは、「色」を抜いた暴力なのだ。


 「色」を抜いた、というのはもちろん比喩的表現であり、これは正確には脱人称化と呼ばれる。意味するところは文字通り「誰のものでもない」ということである。誰のものでもない暴力、「みんな」による暴力、それが権力の本質なのである。たとえば警察官は被疑者を逮捕し拘束する権限を有している。しかしこれは個々の警察官自身が、それこそ大昔の王様のような特殊な人間であるから認められているわけではない。警察官が特殊な権力を振るえるのは、あくまで法律を根拠とする。そして法律を作るのは国会議員であり、そして議員は有権者によって選ばれる。警察官に限らず執行官も自衛隊も全て権力の正当化根拠は、有権者が(間接的にであれ)作った法律である。有権者=みんなの信託を受けそのコントロールの下にある人間だけが、限定的に権力という実力を行使することが認められるのである。このように権力と言うものは脱人称化されソフィスティケートされた実力であるため、人々はそこに一定の信頼を置く。「暴力」という呼称は似つかわしくない、と考えるのである。
では、なぜこのようにして権力の行使に制限を設けているのだろうか。その理由は(話が行ったり来たりして申し訳ないのだが)やはり権力が本質的には暴力だからである。無理矢理に人に言うことを聞かせ、最終的には命さえ奪うことさえできる。死刑制度というのはまさにそれである。このように暴力は危険であるため、徹底的にコントロールをしなければならない。だから、暴力を使える人間を限定し、その使える暴力の種類も限定しているのである(警察官には逮捕権はあっても死刑にする権限はない。緊急時に犯人を射殺するのはまた別の話である)。そしてそうした限定は、有権者=みんなで行う。さらに言えば、警察官も執行官もやはり国民の代表である行政府の指揮下でコントロールされ、また裁判所(これも間接的には有権者によって信任を得ている)による司法チェックも受ける。かように厳しいチェック体制が設けられているのは、ひとえに権力の危険性ゆえである。


 しかし、それではなぜここまで面倒なことをしてまで権力なるものを認めなくてはならないのだろうか。これはあまりにも当たり前だが、権力は危険ではあるが無いと困るからだ。たとえば警察官のいない社会、というのを想定してみれば、それはまさしく『北斗の拳』の世界になる。力の強い者がまさしく暴力を使って弱い人たちを虐げるような社会になる。実際そういう時代もあったのである。だから人々は近代国家というシステムを発明し、暴力を独占させた。国家は暴力独占装置としてそもそも生まれたのである。
 このような前提を純粋に貫くと、権力の行使は抑制的であるべきだ、という結論に傾く。何せ権力とは危険な暴力なのだから。であれば、権力の行使は警察や消防などの最低限人々が安全を保障されるためだけに限定されるべきだ。こうした考え方もあることはあるし実際まさにこの考え方に基づいた国家運営がされたこともあるのだが、それはたいていの場合に上手くいかなかった。というのも人を抑圧するのは何も権力だけではないからだ。たとえば経済。警察や消防以外に権力が行使されないのであれば、富裕層がますます富み貧困層がますます貧しくなるのがひたすら放置され続ける世の中になる。現在がこうした状況に近いのではないかという疑問もあるかもしれないしそれは間違ってはいないのだが、とはいえ現代はなんだかんだで生活保護制度もあり独占禁止法などで企業の活動も一定程度制限しているのであり、野放しというわけではない。逆に考えればこうした規制があるのに徐々に格差が拡大している状況があるのだから、野放しであればな恐ろしい事態になるのは想像に難くない。他には、メディア。放送法やマスメディア集中排除法などで、メディアの運営についても一定の権力による規制がなされている。もしそうした権力による規制が無ければ、メディアを掌握している人間が好きなように情報を流すことが可能になる。それはそれで権力に非常に近いものとなるだろう。
 巨大な財力を持った企業やマスコミもまた個人にとって大きな脅威となりうるのである。哲学的にはこうした脅威も「権力」と呼ぶのだが、法学的には権力とはあくまで公権力なので、このような脅威は「権力類似の力」といった表現をすることが多い。ここで大切なのは呼称の問題ではなく、個人を抑圧するのは何も公権力に限った話ではない、ということなのである。企業、マスコミ、そして前回のメインテーマであった共同体も個人を抑圧する。その抑圧というのは、権力のように有権者=みんなの眼前に晒されているわけではないので、ときに公権力による抑圧よりも強力なものになる場合さえありうる。


 現代は企業やメディア、さらに共同体などが乱立している状態であり、それぞれに抑圧装置として機能する危険性がある。こうした抑圧を牽制するために権力が召喚されることは常に行われてきたし、これからも行われるしかない。分かりやすい物理的強制力はひとまず国家に独占させたものの、それだけで望ましい社会は生まれないのである。
 厄介なことに、他の抑圧を権力によって牽制しようとする試みには分かりやすい正解がない。単に物理的強制力であれば話は簡単だった。権限無くして暴力を振るうことは誰にも許さない。これだけで良いのだから。あとは例外的に、正当防衛や正当行為(例えばボクシング)については認めるということにしておけばよく、これとて法律によって規定される。しかし、経済活動をどこまで権力が規制するか、規制するとしていかなる形の規制が適切なのか、それについて分かりやすい回答を示せる人間はそう多くはない――と言うよりもそもそも存在しない。多分に価値判断が含まれるからだ。だからこれについても方法は一つしかなくて、つまりは「みんなで決める」ということになる。それぞれの考え方をぶつけあい(そのために表現の自由が問題となる)その結果を受けて選挙で選ばれた議員が法律を制定する。こうした手続きを経て、ひとまずは「正統性」が担保され、その結果として内容の「正当性」に一定の信頼が生じる。
 と、一口に言ってみたところで、ここには厄介な問題がある。みんなで決める、と言ったところで、実際にそれぞれの立法につき意見を持ち発信をできる人間はそう多くはない。それこそ利害関係者やその親類や友人、専門で研究している学者、あとはジャーナリストくらいだろう。残りの有権者は、知識も無ければそもそも関心も無い。だからいつだって立法はあまり気づかれないうちになされているのである。確かにマスコミがクローズアップすることで一定の注目を集める法案もあることはある。たとえば、特定秘密保護法。しかし実際に法案段階での中身を読み、かつそれにつき意見を形成できた人間がどれだけいたのだろうか。考えてみればこの法律についてはまさにジャーナリストも利害関係者ということになる。そうなると、実はマスコミが騒いでいたほどには実際的な注目はされていなかった、と考えるべきであろう。


 結局のところ、ここまで利害関係や社会的システムが複雑化した現代社会にあっては、人は自身の利害関係や関心のある分野についてしか意見を持ち発信することはできない、ということである。あとのことについて当事者や専門家に「お任せ」するのは、仕方のないことなのである。もちろんお任せした結果として起こった結果(立法による規制がされた、あるいは規制が放置された)によって自分が「思いがけない」不利益を被るおそれはある。それについては甘受せねばならない。なぜならどの分野について関心を持ちどの分野を他人にお任せするかも、全て自分の自由な選択によるものだからである。もちろん、不利益を被った瞬間からその分野につき関心を持ち意見を発信することは大いに結構なことだが。
 本当に厄介なことに、私たちは「規制をするか否か」につきどのような意見を持つかという点についてはもちろんのこと、そもそもその分野の規制につき関心を持つかどうかという点についても責任を負わされてしまうのである。それは私たちが有権者として民主主義国家にコミットする権利を十全に保障されていることの裏返しだ。「興味が無いからお任せします」という態度はもちろんのこと、「分からないので答えを留保します」という態度さえ、結果として特定の立場、すなわち「関心を持っている人々の中での多数派」にコミットしてしまうのである。もちろん積極的にある意見を支持表明した人間とまったく同じ責任を負うわけでもないが、しかし「自分はそもそも分からなかったので責任はありません」という態度は許されない。やはり、お任せした、留保したという点についての責任からは逃れられないのである。


 規制をするのか。しないのか。どちらがより人々を幸せにするかは誰にも分からない。そして私たちは望むと望まないとにかかわらず、その結果について責任を負っているのである。それが民主主義国家における有権者ということなのだから。別の言い方をすれば、私たちは何かを積極的にする場合はもちろんのこと、何かをしないということについても「しないという立場」を選択した、ということにされてしまうのである。これは法的な擬制ではなく、どこまでも現実的な結論である。そして私たちの選択した「立場」が、何らかの規制やあるいは規制をしないということにつながる。そしてその結果が、誰かを救うこともあれば、誰かを不幸にしたり、ときに命を奪うことさえある(たとえば、高齢者の自動車運転のことを考えてみれば、今のところ高齢者への一括的な運転規制はされていないが、その結果として高齢者による自動車事故が最近増えているのである)。そしてその結果につき、私たちは程度の差こそあれ責任を負わなくてはいけないのである。これは仕方のないことである。なぜなら、権力という強大な力を行使することが私たちには認められているのだから。言わば私たちは誰もが小さなロベスピエールになる危険性を潜在的に有しているのである。そして頭の痛いことに、本当にロベスピエールになってしまったのかどうか、その判断さえ簡単にはできない。それだけ今の社会は複雑なのだ。くどいようだが、「政治にかかわらない」ということによってこの危険性から逃れることはできない。かわらない、という選択さえも一つの立場として機能してしまうからである。私たちは誰もが潜在的な小さなロベスピエールなのである。
 これこそが民主主義社会における私たちの「原罪」と呼ぶべきものである。何をしようと何をしなかろうと、誰かに対する不当な抑圧に加担する危険性を有してしまう。逃れることはできない。しかし、だからと言って暗くなることはない。こうした原罪を背負う理由は、私たちが誰もが等しく自分の国に対して政治的な参加をする権利を有していることにあるからだ。この原罪、私たちが等しく政治的権利を有することの代価なのである。もちろん、恐れなくてはいけない。国家や権力とは危険なのだ。それにコミットすることにつき、恐れを忘れてはならない。しかし、「権力を行使するよう働き掛けること」も「権力を行使しないように働きかけること」も「お任せすること」も、どれも等しく危険性を持っているのである。だから私たちがすべきなのは、殊更に国家権力の危険性を強調し権力の行使に抑制的であるよう考えることでもなければ、国家の万能性を説きとにかく権力を大きくすることでもなければ、ましてや全ての話題につき関心を持とうなどという出来もしないことを叫ぶことでもない。いかなる立場も等しく潜在的に他者(あるいは自分)を不幸にする危険性があることを胸に刻み、その話題・分野ごとに自分の立場を自覚的に選択する、ということなのである。

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「反国家原理主義」という病
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2015/02/04 22:12

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