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zoom RSS ネットと権力と近代の再構〜在特会を巡って〜

<<   作成日時 : 2015/01/09 02:43   >>

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 明けましておめでとうございます。気が付けばブログの更新がおよそ1年も空いてしまいました。大変ご無沙汰しております。Twitter(https://twitter.com/kaibarakenei)では頻繁に呟いておりネットの利用そのものは継続的に行っていたものの、少々訳あって長文を書くことは控えていたところ、これほどまでに間が空いてしまいました。と言いますか、実はブログを今後一切書かないことも視野に入れておりました。それにもかかわらず今回約1年ぶりに筆を執ったのは、ある事件およびそれを巡る言論状況に思うところが多々あり、それについて是非とも書いておきたい考えたためです。
 かなりの長さになるうえ気分の悪くなる話題を扱っていますが、ご笑覧くだされば幸いです。




               <ネットと権力と近代の再構〜在特会を巡って〜>

 昨年12月9日、京都朝鮮第一初級学校(現・京都朝鮮初級学校。以下、朝鮮人学校)を運営する京都朝鮮学園が「在日特権を許さない市民の会」(以下、在特会)と会員ら9人に賠償などを求めた訴訟の上告審において、在特会の敗訴が確定した。裁判所は、在特会の行為は人種差別撤廃条約に違反しそのため賠償額を高額に算定する、との判断を一審から一貫して行った。右判決は、人種差別的行為が民法709条の不法行為責任を構成する場合には賠償額を高額に算定すると宣言したものであり、差別発言、ヘイトスピーチの被害者を救済するにあたって一定の効果を持つことは間違いない。
 一方でこの判決だけでは不十分であることもまた間違いのない事実である。右判決は、人種差別撤廃条約に違反することそのものを根拠として賠償を認めたものではない。あくまで、在特会の行為が民法709条の不法行為責任が成立することを前提に、その賠償額の算定の際に同条約の趣旨を考慮するという、いわゆる「条約の間接適用」という法技術に依ったものである。したがってある行為が人種差別撤廃条約に違反していたとしても、それだけをもって賠償の対象とすることもできないし、もちろん刑事罰を科すこともできない。差別行為が特定の個人に向けられ、そこに人格的利益への侵害が認められ民法709条の責任が成立する場合に、初めて条約の趣旨を賠償額の算定という形で考慮できる。この点は刑事罰においても同様に判示もされているが、既存の刑法の罪に該当することを前提に、さらにその行為が人種差別撤廃条約に違反する場合に初めて量刑という形で同条約の趣旨を及ぼすことができる。
 言い換えれば、基本的には「具体的な被害者」がいない限りは民事・刑事いずれにおいても行為者の責任を追及することはできない。したがって、特定の民族に対する侮蔑的な言葉を叫び続けるデモについて法的に措置を行うこともできない。今回の判決で賠償責任が認められたのは、あくまで在特会の街宣活動(と言うのも本来は憚られるような業務妨害・器物損壊を伴う単なる嫌がらせ)が「具体的な学校」「具体的な個人」に向けられたためである。そこでこの判決が下され目下の関心事となっているのは、「既存の法には何ら抵触しないが人種差別撤廃条約に違反する行為」に対していかに対応するか、という点についてである。これがいわゆるヘイトスピーチ規制という問題である。


 ヘイトスピーチ規制は(当然ではあるが)ヘイトスピーチに法的な対応をすることであり、現在そのための具体的な立法内容が検討されているが、反対論、慎重論も多い。これはヘイトスピーチを問題視する人間であっても同様であり、表現の自由に対する制約であるという点を問題視しているのである。確かにヘイトスピーチ規制は表現の内容そのものを制限するものであり、表現の方法や場所などを制約する場合に比べて強力な制限となる。「ヘイトスピーチ」と称して国家権力に不都合な言説を規制する、あるいは本来ヘイトスピーチにあたる行為でも国家権力にとって有利なものについては取り締まらない、という恣意的な運用がなされることも、ありえないではない。ヘイトスピーチ規制法(仮称)を危険視し反対するといった立場も被害妄想として切って捨てることはできない。むしろ憲法学的な観点からすれば当然の感覚と言ってもよい。
 しかし、現在私たちが生きる世界は、そのような単純な原理論では既に捉えきれなくなっている。その点を指摘しヘイトスピーチ規制の必要性を説くのが本論考の目的である。
 再び今回の判決に話を戻す。今度は、判決内容だけではなくそれを巡る言論状況に目を向けてみよう。今回の判決を受け、各種メディアは在特会の敗訴と、その高額な賠償金の算定根拠が人種差別撤廃条約であることを報道した。この点は既に私も解説したとおりであり、まったく間違いはない。しかしこうした報道につき異を唱える意見がネット上に散見される。むしろ感覚的にはそうした意見の方が多いとさえ感じるほどだ。そうした意見は、大きく次の2つの意見にまとめることができる。

1、在特会の責任は業務妨害等について成立したのであり、差別は関係ない
2、在特会が街宣活動をした理由は、朝鮮人学校が公園を不法占有したからであり、その点を報道しないのは偏向している

 これら2つは同時に主張されることが多く、表現や内容を若干変えながら匿名掲示板やTwitterで繰り返し主張されている。少し検索してみればうんざりするくらいに大量にかつ簡単に発見できるので、私の主張の裏を取りたいと思われた方は調べてみても悪くはないと思う。
 ではこの2つの意見につき検証してみよう。まず1については論外という以外の言葉は見つからない。人種差別撤廃条約の禁止する差別にあたることを根拠として、在特会には高額な賠償金が課されたことは既に述べたとおりであり、この点を完全に無視した愚論であると評価するほかない。こうしたデマ(と断言させていただく)の発信源を完全に特定することはもちろん出来ないが、候補として有力なものなら1つあげることができる。

地上波で流れない「ヘイトスピーチ高裁判決・在特会敗訴」のウラ事情/H26.7.9(https://www.youtube.com/watch?v=CPfzaVsshWc

 在特会の会長(当時)桜井誠のアップした動画である。この動画の中で桜井は6分35秒頃から、前記1とほぼ同じ内容を語っている。以下台詞を起こし引用する(言い間違いや言葉のつまり等は省略)。

『京都地裁の判決は、そもそも人種差別撤廃条約をバックボーンにして、あんたたちの行動は人種差別的なものだから1200万円の賠償金を払え、って言ってるんですけど、これを否定しているんですよ。この判決文(※海原注、大阪高判判決)で。人種差別撤廃条約に基づいての高額な賠償を課すことは、認められないって書いてあるんです。ただし、あんた達のやった行動は悪質だから1200万円は妥当よ、っていう簡単に言えばそういうことなんですよ』

 ネット上に溢れる有象無象のデマよりはいくらか巧妙である、と言っては皮肉にすぎるだろうか。確かに桜井の言うように、一審の京都地裁は人種差別撤廃条約を背景に賠償額の算定をしている。しかしこの点については二審の大阪高判もまったく同じ判断をしているのである。一審判決は裁判所のHPでダウンロードをできるが、二審以降は掲載されていない。このため判決文を入手するためには図書館等に足を運ぶ必要があるのだが、そんなことまでするネットユーザーはいないだろう、と踏んでハッタリをかましたというところだろう。高裁判決に「人種差別撤廃条約に基づいての高額な賠償を課すことは、認められない」などという文言は一切書かれていない。確かに文言が変化している部分はあるが、それは桜井の主張とは無関係な点についてである。
ここで少々横道に逸れるが、在特会やそのシンパからの難癖を予め封じておくためにも、念のためその変化した部分についても解説しておこう。 まず一審は

『人種差別撤廃条約による無形損害が発生した場合、人種差別撤廃条約2条1項及び6条により、加害者に対し支払いを命ずる賠償額は、人種差別行為に対する効果的な保護及び救済措置となるような額を定めなければならない』

と述べる。この該当部分を、第二審は

『人種差別を撤廃すべきものとする人種差別撤廃条約の趣旨は、当該行為の悪質性を基礎付けることになり、理不尽、不条理な不法行為による被害感情、精神的苦痛などの無形損害の大きさという観点から当然に考慮されるべきである』

 と述べる。この2つを比べて見たときに、人種差別撤廃条約を賠償額算定の根拠にしているという点は共通している、というのは明らかだ。違いは、一審が『額を定めなければならない』と、同条約に基づく算定は明確な義務であるとしている一方で、二審が『考慮されるべきである』という比較的緩く表現している点である。これは、同条約を賠償額算定の根拠にすることは共通の前提としたうえで、それは条約によって義務的に日本の裁判所に要求されていると解するのが一審であり、義務ではなくあくまで日本の裁判所の裁量として行うと解するのが二審である、という違いの表れである。国内法規を条約に適合するように解釈する場合にそれが「義務的適合解釈」なのか「裁量的適合解釈」なのか、という国際法上の論点なのだが、繰り返すが人種差別撤廃条約を賠償額算定の根拠にしているという点は共通している。したがってこれもまた繰り返しになるが、桜井の『人種差別撤廃条約に基づいての高額な賠償を課すことは、認められないって書いてあるんです』という発言は全くのデマである。 デマを根拠にネットにデマが広がっていく、というのはよく見る光景である。桜井のこのデマ、(高裁判決が)人種差別撤廃条約を賠償額算定の根拠にしてはいないという発言が、判決文をろくに確認もしない在特会のシンパや愚昧なネットユーザーによって信頼され拡散されていったという推測は、正解である確率がかなり高いだろうと思われる。


 続いて、
2、在特会が街宣活動をした理由は、朝鮮人学校が公園を不法占有したからであり、その点を報道しないのは偏向している
 という意見について考えてみたい。これについても右動画の中で桜井が同じことを述べている。4分20秒頃からの台詞を先ほどと同じように文字起こし、引用する。

『そもそも朝鮮学校がですね、公園を不法占拠しなければ我々が行く必要もなんも無かったわけですよ。ただそれだけの話でね。よくまあ人種差別だとか人権がどうのこうのとか言うけど関係ないだろと。これは公園を不法占拠したかしてないかっていう問題だったんですけども、大変残念ながらですね、こういう結果になりました。そしてそれをマスコミは原因を一切報じず、やっぱりですね、なんでもかんでも在特会ということで、報道しております』

 この朝鮮人学校の公園不法占拠は、在特会が今回の行動を正当化するために理由としてこの動画の以前からも繰り返し述べている。やはりこれを鵜呑みにした在特会シンパも多かったろうと推測される。
しかしこれもいかにも苦しい弁明である。まず判決においては、

『それが表面的な装いにすぎないことは、その映像自体から容易にうかがい知れるし、被告Aが、京都市の担当者から平成22年1月か2月にはサッカーゴール等の物件が自発的に撤去される予定であると聞いていたのに、「朝鮮人を糾弾するための格好のネタを見つけた」と考え、自分たちの活動を世間に訴える目的で示威活動@を敢行したことからも明らかである』

 と、一蹴されている。この点は一審以降、変更されず維持されている。裁判所は、公園不法占有問題は在特会が差別活動をするための単なる口実に過ぎなかった、と認定したのである。実際、在特会は市や警察が動かなかったから自分たちが行動を起こした、と言うが、それならば行政を相手取って訴訟を提起すればよかったのであり、学校や児童を相手に民族を理由とした侮蔑的表現を浴びせる必要などまったくなかった。しかし現実にはこうした行為に及んだことをかんがみれば、判決の言う通り、単なる口実、ネタとして公園不法占有問題を持ち出していただけである、と評価するほかない。いわば「肩がぶつかった」と言って因縁をつけるのと同質であり、そのような因縁をわざわざマスコミが報道しないというのも実に理に適った態度なのである。
 なお、在特会はしきりに朝鮮人学校の不法占有は50年に及んだと主張するが、これは公的に証明がなされたわけではない。同学校の元校長がこの件で罰金刑を受けているが、その際に認定された不法占有期間は平成21年6月5日から同年12月4日までの間、すなわち半年である。50年、というのは在特会が主張しているだけなのであり、いずれにせよこの問題は在特会が自己正当化のために過剰に宣伝しているのだと言える。


 以上のように、本判決の報道を巡るネットの意見には、在特会(桜井誠)のデマを真に受けたと思われる愚論が数多く存在している。話はここからである。先の判決は、本来であれば在特会やそのシンパに対する強力な抑止力となるものである。しかし右のような「曲解」が大量にネットでばら撒かれてしまえば、その効果も減退してしまう。ましてや在特会は元々その出自をネットに持つ団体であるため、減退の度合いもより大きくなる。要するに折角の「反省の機会」がほとんど生かされないということになりかねない。そしてこの反省の機会が生かされないというのは、まさしく在特会やそのシンパ、いわゆるネトウヨの根本的な問題であり、ひいてはネット社会における普遍的な問題なのである。
 さきほど私が論証したとおり、これらのデマは決して見破るのは難しくない。マスコミ報道でも十分だし、マスコミが信用ならんということであれば判決文を自ら読んでみればいい。一審判決は裁判所のHPですぐダウンロードできる。二審以降も、図書館等でさほど苦労なく手に入れることもできるし、二審判決については朝鮮人学校側が全文をネットにアップもしていた。「原典」の確認は容易なのである。容易になったのはもちろんネットの功績が大きい。だが彼らはそうした環境を利用することはない。訴訟の一方当事者の意見を鵜呑みにし、発言者不明の2ちゃんねるの書き込みを信じ、Twitter上の根拠の示されていない呟きを真に受ける。私は彼らの何人かとTwitter上でやりあったが、ほぼ全員が判決文の確認などはそもそもしておらず、そして全員がこちらが提示した判決文の根拠もスルー、黙殺し、仲間内だけで流通する情報だけを根拠にした罵倒やレッテル貼りに終始していた。そこには正確な知識も理論も無く、むろん説得は不可能だった。ありていに言えば、彼らは「見たいものしか見ない」という状態で完全に固まってしまっていた。
 ネットは、「見たいものしか見ない」という状態を簡単に作ることができる。Twitterの「フォロー」や「ブロック」といったシステムはその象徴である。そうでなくとも、ネットでは自ら検索しお気に入りに登録したサイトやアカウントしか目に入らない。それはそれでいい面もある。わざわざ自分の嫌いなものや興味の無いものを見ることは人生の浪費である、という考え方もあろうし、趣味や娯楽ということであれば合理的な態度であるとさえ言えるのかもしれない。しかし話が政治や社会や経済や法といった個人の趣味嗜好では済まされない公共的な問題に及べばそうとは言えなくなる。自分の好物ばかりを食べ続けることが必ずしも自分の健康のためにならないのと同じように、自分の好む情報ばかりを見聞きし続けることが自分の認識能力や思考力等の知的体力にとって良いとは限らないのである。厄介なことに、ネットは自分の好みの情報や自分と意見を同じくする人間で周りを囲い込むことを簡単にしてくれる。そのため、自分が「好物しか摂取していない」状態に陥っていることになかなか気づけなくなってしまう。さらに言えば健康状態についてはいずれ目に見える形で症状が出るが、認識能力や思考力の歪みはなかなか気づけない。これがリアルの生活であれば、職場や家庭や学校などで指摘され反省する機会も与えられるのだが、ネットでは批判者が現れても気に入らなければ即「ブロック」をすれば済んでしまう。繰り返すがこうしたことは必ずしも悪いことではない。リアルの生活と同じかそれ以上に、ネットでは「ためにする批判」が跋扈している。そうした煩わしい批判(という名の難癖)を見なくて済むというのは精神衛生上悪いことではない。だが、「ブロック」しスルーした批判の中には、有益なものもあったかもしれないのだ。それをいかにして見分けるのか。
 それを適切に見分けられるかどうかは、身も蓋も無い言い方になるが結局は個人の知性の問題である。批判を受けたときに即座に感情的に反発したり忌避したりするのではなく、ひとまず一旦は飲み込んで自分の中で咀嚼できるかどうか。そのような自己批評的で自己反省的でそして謙虚な姿勢を持てるかどうかにかかっているのである。そしてそういった人間の周りには、やはりそういった人間が集まるものなのである。逆もまたしかりである。ネットのおかげで私たちは世界中の人々や情報と繋がることができる。しかしそれは潜在的な可能性であって、現実にそうなっているわけではない。実際に私たちがどのような人間、いかなる情報と繋がれるかは、ひとえにネットの利用者たる個々の人間の選択にかかっているのである。


 現実には、自分の見たい情報だけを見て、自分の繋がりたい人とだけ繋がっているネットユーザーは数限りなく存在する。趣味娯楽の領域だけではなく、政治や社会についても同様である。いやむしろ、政治や社会といった領域の方がより排他的になり仲間内だけで過激になっていく傾向が強いかもしれない。もちろん、幅広い知識や視野を持ったユーザー同士が非常に有益な交流をしている例も多々ある。しかしそれはどちらかと言えば学者やジャーナリストや言論人、勉強熱心な社会人や学生などいわゆる世間的には知識人やインテリといった分類をされる人々の間で行われることがほとんどである。むしろ目立つのは「そうではない人々」の間で行われる、思い込みの相互強化である。
 ユルゲン・ハーバーマスはインターネットに新しい公共圏の可能性を夢見たが、21世紀初頭の現在、日本のネット状況は全体として見ればハーバーマスの理想とはいまだ相当に離れていると言わざるをえない。それどころか、事態はもっと悪い状態だとさえ言えないだろうか。一部の知識人層が有益な交流をするすぐ隣で、あるユーザー達は特定民族の排除を叫び、それは正しいことだという認識を相互に再強化していく。またその隣で、あるユーザーたちは憲法を守り自民党に反対することが正義であると盲目的に叫び、やはりその認識を相互に再強化していく。こうして「反省の機会を奪われた」無数のユーザー達は、自分の所属するネット上の小さなコミュニティーを世界の全てであると思い込み始める。そしてその認識の下、他のコミュニティーに所属するユーザーとふと接触した瞬間にときに戸惑い時にスルーし、そして時に攻撃に走る。
 「コミュニティー」という言葉を私が使っていることから既に予測している人もいるかと思うが、「反省の機会を奪われた」ネット環境の中で生まれたものは無数の「疑似共同体」である、というのが私の考えである。それも近代国家の出現以前の、強力な同調圧力をもって個人を抑圧する共同体に近い存在である。いわゆるネトウヨやそれらがネットを飛び出した存在だと言える在特会を見れば、決して大げさな分析ではないとお分かりいただけるはずだ。ロレンス・レッシグは、18世紀は共同体、19世紀は近代国家、20世紀は自由市場、そして21世紀はアーキテクチャが個人を支配し自由を制限する、と分析した。インターネットというアーキテクチャは、皮肉にも18世紀的な共同体を(疑似的にであれ)21世紀に復活させてしまったのである。


 ここでようやく冒頭の話に戻ることができる。国家権力が危険であるというのは近代主義の大前提であり、そのため国家による規制には注意を払わなくてはならない、というのも常識である。しかし、強力な近代国家の出現には、共同体による恣意的な支配から人々を解放したという側面が確実に存在する。そのうえで、強力な国家権力をいかにしてコントロールするかという問題が「次の段階」として生じたのである。今私たちが考えるべきことは「次の段階」のことではない。21世紀に亡霊のように蘇った共同体が個人を弾圧する状況の中にあってまずすべきことは、正しくこの亡霊を葬り去ることである。すなわち歴史の繰り返しであり、国家権力の再構築に他ならない。
 もちろん「次の段階」の話も忘れていいわけではない。国家権力というのは極めて兄弟で危険なものなのである。それが暴走をしないように注意して注意しすぎるということはない。しかしそれは、国家権力の発動を極限まで抑え込むということを意味しない。必要な規制は必要なのである。それを恐れ、あくまで国家権力の危険性を原理的に訴えヘイトスピーチ規制に反対するのであれば、それはネトウヨや在特会といった共同体によるマイノリティーに対する抑圧を是認することに他ならない。彼らを言論の力によって思いとどまらせることが不可能なのはもはや明らかである。国家による規制をしないのであれば、もはや彼らを止める方法は一つしかない。しばき隊に代表されるカウンターと呼ばれる、これもまた強力な共同体の圧力をもって対抗するしかない。かくして、それこそ18世紀のように共同体同士の争いが起こるのである。そのような社会を私たちは望むのだろうか。
 私にはどう考えてもそのようには思えないのである。だからこそ声を大にして言いたい。恐れながらでもいい、国家権力を再構築しよう。そして恐れるのであれば、私たち自身が国家権力をコントロールできる近代的個人に今度こそなろう。しばしば「近代をやりそこねた」と揶揄される日本で、新しく近代を始めよう、と。

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「反国家原理主義」という病
 ヘイトスピーチの法規制を巡るアレクセイ氏とのやり取りは平行線のまま終わり、結局お互いに認識の一致点を見ることはなく決裂するという結果になった。 ...続きを見る
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2015/02/04 22:12

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